このページはコスメ・美容に関する類義語辞典が 2006年 12月 05日 11時37分24秒 にクロールしたキャッシュ情報です。
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もっともとは?
[ 97] #17 日本各地にあったごもっとも
[引用サイト] http://www.npo-hyogo.jp/achikochi_tei/achikochitei_tayori/achikochitei_tayori_17_03.02.09.htm
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今年も節分の日は、例年のように「鬼は外、福は内、ごもっともごもっとも」と声を上げながら家中の窓を一つずつ開けて豆を撒きました。 節分の直前にふと思い立って、ヤフーで「ごもっともごもっとも、節分」を入力してサーチしてみました。驚いた事には沢山の「ごもっとも」に触れたサイトが検索先に出てきました。 京都の吉田神社の氏子地区、宮城県、埼玉県秩父の三峰神社の行事(Tさんに教えて頂いた)長野県の鬼無里などなどです。興味のある方は添付ファイルにその一部をコピーしましたのでご覧ください。それらによると、どうもこの習慣は、元々は中国から入った貴族階級の行事が、日本古来の晦日(節を分ける日)の五穀豊穣の祈りなどと結びついて京の都から各地に広がり、一般民衆の年中行事の一つとして長く伝えられてきたもののようです。 そこに住んできたご先祖さんたちが何百年も続けてきたこの節分の行事を、もう父親の代にそこを離れてしまったけれど、ルーツを忘れないためにも、うちの子供達も是非続けて欲しいと思っています。 鬼の面をつけたスタッフから福引を引いて「節分」を楽しむ参加者一年の厄を払い、開運を願う節分。参加者は吉田神社(左京区)の福豆を一袋ずつ頂き、福引を引いた。賞品は、タンスに入れると「きれいになって衣装が増える」とされる須賀神社(同区)の懸想文や、吉田神社の鬼面など。 小島さん方は節分の日、出入り口で豆まきをしてから自分の年齢の数だけ豆を食べて、さらに同じ数の豆とさい銭を和紙にくるみ、同神社などに納める。当主が豆まきする間、別の家族が後ろについて「ごもっとも、ごもっとも」と言いながらうちわであおぐ風習もあるとか。 立春の前の日を節分と云います。古くは、季節の変わり目、立春・立夏・立秋・立冬の前に行事が行われていたようですが、立春の前だけ残ったのは、冬から春への変わり目が、大事な折り目だからでは無いでしょうか、節分には、豆をまいて鬼を払う行事が行われます。神社やお寺では、有名人を招いたりして華やかに行われますが、民間でも根強く残っています。 「福は内・鬼は外」と三回ずつ唱えながら豆をまき、その後からすりこぎを持って「ごもっとも・ごもっとも」と云って歩いた習慣が、つい最近まで残っていましたが 節分・・・各地いろいろの風習があると思います。豆まきの掛け声にしても、「鬼は外福はうち」と、いうのは、一般的ですよね。「鬼は内、福も内」と、言う掛け声も聞くといいます。宮城の一部の地域では、「鬼は外福は内」といいながら豆をまく人の後ろから、「ごもっとも、ごもっとも」と、いいながら、うちわで扇ぎながら歩くところがあります。うちわで、鬼を、追い払うのでしょう。 まだまだ寒い(今日は、吹雪だっ!!)とはいえ、もうすぐ春がやってくる・・・そんな季節の分岐点です 豆まきの行事そのものは里の節分祭と同じだが、年男が三方にのせた福枡の豆を「福は内、鬼は外」と唱えると、後に控えた所役が大声で「ごもっともさま」と唱和しながら、大きな棒を突き出す。この棒は、長さ3尺位の野球のバットのようなもので先に〆縄を巻き、根元にミカン2個を麻縄でくくりつけた男根を象徴化したものである。突き出すときに「ごもっともさま」と唱えることから、このような呼び名がついたとおもわれる(午前11時・正午・午後2時・午後4時)。 2月3日は節分、4日は立春で、暦の上では春がきたことになりますが、鬼無里はまだ深い雪の中です。冬ごもりしながら、農家は麻糸作りに精を出す時期でもありました。 【年取り】節目の日であるが、仕事は休まず、早めに切り上げました。お神酒、頭つきの魚と白いご飯神棚(恵比寿棚)に供えます。家内安全と健康を祈願しました。豆まきの前に夕飯を食べ年取りをします。【豆まき】大豆をホウロクで炒って、豆まきをします。年男、若い男または家の主が、一升マスに入れて家の中の各部屋を「鬼は外、福は内」と大きな声で繰り返しながら、まいて歩きます。その後ろを、男の子などがスリコギを肩に担いでついて歩き、「ごもっとも、ごもっとも」と唱和することもあった。この豆を自分の年の数だけ食べると災難を逃れるといって皆で食べます。 |
[ 98] それは、ごもっとも | エキサイトニュース
[引用サイト] http://www.excite.co.jp/News/bit/00091122345439.html
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以前、私は、宮城県にある「もっこりの里」を赤面しつつレポートいたしました。今回もまた私、谷和原はノートパソコンの前で赤面しております。いや、前回どころの騒ぎではありません。もしかしたら、コネタ初の「成人指定」なんてことにもなりかねません。ううっ。えっと、気を取り直して、っていうか、開き直って……。1998年。山梨県の三富村(現山梨市)と、埼玉県の大滝村(現秩父市)を結ぶ長大トンネル「雁坂トンネル」が開通しました。随分昔から計画はあったのですが、かなりの山中を貫く大工事だったため、つながるまで結構な時間を要したのですね。それまで両端の村は行き止まり同士。深い深い山に囲まれて独自の文化が築かれていったのでしょう。こと、埼玉県側の大滝村にある三峯神社は、由緒正しく歴史深い神社であり、節分の時には独特の神事「ごもっとも」が行われます。これは、豆まきの背後で巨大な「ごもっとも様」を突き出すのが特徴だそうで。「ごもっとも様」とは、長さ1メートルのヒノキのすりこぎ棒型で、注連縄が巻かれ、根元にミカンが二個下がっている、そうです。そして、そのごもっとも様に関連して、大滝村にある道の駅「大滝温泉」内の食事どころでは「ごもっともそば/うどん」がメニューに並んでいるのです。普通のざるそばが700円。ごもっともざるそばが800円。この100円の違いとして、メニューに小さくこう書かれていました。「ごもっとも〜には、ソーセージ、うずらの卵、海草がつきます」ふうん。変な組み合わせです。すりこぎにミカン二個のごもっとも様に、ソーセージにうずらの卵のごもっともそばに……、え、あれ?まさか。運ばれてきた「ごもっともそば」。とても美味しそうなお蕎麦に添えられた、色艶のよろしい太いソーセージと、うずらのゆで卵。さらにはもじゃもじゃな海草少々。……うわーーん。店内のどこにも、そんなこと書いてないじゃないかっ。入口に「関東唯一の名物」なんて不思議なあおり文句は書かれていたけれど、まさか「こんな」だとは思わないじゃないのっ!?と、激しく赤面しても、もう遅し。しかし、周りを見回してもみんな何事もなく、静かに食事をしております。店員さんも若いお姉さんだし。みんな、知ってたのかなあ。オトナだなあ。え、まだわかりませんか? 棒がいっぽんに、丸いものが二つあるんです。そんで、海草までついて。個人的には海草はちょっとやりすぎだろう、と思いましたが。ちなみに、三峯神社の「ごもっとも様」は、特に子授けにご利益があるのだそうです。それはそれは、まったくもって「ごもっとも」でございます……。(谷和原のぞみ/お気楽ステーション) [08月01日] ナニがナニしてナンとやら(※もしかして18禁) [ せっかくなので開いてみた。 ] at 15:39:50 エキサイトブログユーザーならブックマークレット機能を利用してこのページにトラックバックできます。 |
[ 99] #9 ごもっとも・・・その後
[引用サイト] http://www.npo-hyogo.jp/achikochi_tei/achikochitei_tayori/achikochitei_tayori_09_02.09.23.htm
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節分が一年に一度の行事であることから、法事でしか顔を会わさくなって久しい従兄姉たちと、法事の席で節分をどうしているかなんて話題にすることは、当然これまで一度もありませんでした。 今回、掲載エッセイのコピーを父方、母方の親戚に送った事から「ごもっともの真実」が明らかになってきました。 一番上の伯父の上諏訪在住次男家;本人は大きな声で毎年やって家族の顰蹙をかっている。 二番目の伯父の東京在住長男家;もう50数年東京に住んでいるが、毎年欠かさず家族と共にごもっともをやってきた。 四番目の叔父の東京在住の長男家;叔父が大声で欠かさず鬼は外〜を毎年やっていたが、ごもっともは言っていなかった。自分もやってない。 明治41年生まれの伯母が95歳でなくなり、9月の始めに、その葬儀にひさしぶりに上諏訪へ行きました。 小和田地区の檀那寺、教念寺での葬儀の後、父方の従兄の中では最年長の喪主の家に寄りました。東京在住50年を越え、勤務先を70歳で最近リタイアーしてそろそろ東京から引き上げるかもしれない従兄(喪主)の実家には沢山の書物があります。 従兄が二つの本を出してくれました。それを借りてきました。そこからそのまま抜書きします。 「豆撒き」は「鬼打ち豆」ともいって、炒り上げた豆を必ず一生桝に入れて、熱いうちに年男か男の子供が大声に「鬼は外、福はうち」と唱えながら、上座敷から順次家中を撒きあるく。 撒く時の様子は家によって多少の違いがある。「鬼は外」は外に向かって大声に、「福は内」は内に向かって小声にいう家、「鬼は外、福は内、鬼の目へビチャリン(ブッツブセ)(パチリン)」と唱えて家の内外へ撒いてから少しずつ天井に投げつける家、仮想行列をして下男迄がつきあるいて賑やかにやる家、又、一人が豆撒きをする後へ、一人が擂粉木を持ってつき歩き、てくんてくんと上下に動かしながら「ごもっともごもっとも」と受答えて騒ぐ家などがある。 (母の里は諏訪市の隣の現在の茅野市(の中でも八ヶ岳のなだらかな麓のかなり上の方の地区)ですが、相方によると母が南柏や藤代の家に節分の頃に来たときは、一緒に豆撒きをして、「鬼は外、福は内、鬼の目を ブッツブセ」と言って豆を撒いて、嫁と孫を喜ばしてくれたと今回思い出して教えてくれた。「家によって多少の違いがある」という通りですね。残念ながら、辛好は出張で不在か、東京にいてもその時間には麻雀か酒で家には帰らなかったのでそのことを知らなかった。) この小和田地区で400年以上住民に維持されてきた共同浴場(自泉噴の温泉を利用)をコミュニテイセンターとして捉え、レポートしたこの記事は、お上と関係なく住民が地域を自治的に運営した多くの庶民の歴史の一つとして面白いので次回報告します。 「新信濃風土記」という本によれば、天正19年(1591年)に、豊臣秀吉の家臣、日根野織部正高吉が、(諏訪)湖中の高島の漁村50戸を小和田に移して、高島城を築いたということですが、この「移した」というのが重大事件だったろうということは容易に想像できます。 ・・・中略・・・・高島村の人たちは、湖の中の島(現在の高島城のあたり、現在は陸続きですが、昔は湖が大きかった)に住んで、湖で漁をしたり、田んぼ(現在の小和田田んぼあたり)で稲作をしていたわけですが、日根野氏が「城をつくりたいので立ち退いてくれ」というので、話し合いで、住居地として現在の小和田の土地をもらうとともに、特権として諏訪湖全体の漁業権を得たということです。・・・後略・・ 辛好は「諏訪氏が高嶋城を築城するとき・・」と思っていましたが、このころ諏訪は甲斐の武田信玄軍団に長く占領、統治されたあと秀吉軍の支配下にあったようで、諏訪神社の祭神の末裔と称する諏訪氏は衰えていたようです。ただ徳川の時代になってから諏訪氏は旧領地に復し、明治維新までお殿様でしたが。 全親戚の中で我が家だけが関西以西で暮らしたため、ルーツにうとく、いまさらに学習する辛好。 |