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委ねるとは?
[ 109] 本人が臓器提供の決定を遺族に委ねるという選択肢 てるてる日記/ウェブリブログ
[引用サイト] http://terutell.at.webry.info/200502/article_7.html
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"「死者の人格権」の可能性 臓器移植法改正に向けて"(宮崎真由著、現代文明学研究:第4号(2001):195-216)には、本人が臓器提供の決定を遺族に委ねるという選択肢を認めてはどうか、という提案がある。 私見による臓器摘出要件では多くの臓器移植を待つ患者を救うことができない。しかし、それを理由に死者本人の権利が軽んじて考られるべきではない。そこで以下の臓器摘出要件を提案したい。死者本人が臓器提供をするか否かの決定を遺族に委ねることを認めてはどうだろうか。オランダの臓器移植法(注64)では、本人には臓器提供について4つの選択肢が認められている。すなわち(1)臓器提供の承諾、(2)拒否、(3)遺族へ決定を委ねること、(4)法定代理人による委ねることの4つが選択肢として与えられている。日本では、本人が臓器移植をしてもよいと考えていても、それによってかかる遺族の心的負担を考えて、臓器提供意思の表明をしない場合があると言われている。それなら、本人の自己決定権に基づいて、遺族に臓器提供するかどうかの決定を委ねるというのは、ドナーカードによる意思表示を積極的に促すためにも、有効な選択肢と言うことができる。 よって、私は臓器摘出が可能なのは、死者本人が臓器提供意思を明示に表明しており、遺族も臓器提供について同意する場合、そして死者本人が臓器提供について遺族に決定を委ね、遺族が臓器提供を認めた場合に、臓器摘出を可能とすれば良いと考える。 (64)オランダの臓器移植法では提供意思について登録制度を採用している。18歳以上の成人は全国民を対象にはドナー書式が送られ、自分の選択を記入したあと送り返して登録するが、登録をしなかった場合には自動的に遺族に決定が委ねられるという規定になっている。詳細は、山下邦也1999.「オランダにおける臓器提供法の現状」p155 私も、この提案はいいと思う。「子どもの脳死・移植」(クリエイツかもがわ、2003年)の著者杉本健郎も、カナダでドナー・カードに記入する時に、「今は意思表示しない。死んだ時に家族と相談してくれ」を選択した、と述べている。カナダでは、健康保険加入や自動車免許取得の時に、臓器提供に関する意思表示を求められるとのことである。 トロント在住時、健康保険の手続きをする際、「臓器と組織の提供意志」の項目で三つの選択を迫られた。いずれかを選ばないと手続きが終了しないのである。 私は迷わず「2.」を選択した。カナダは国民皆保険制度である。外来の薬剤提供意外は、入院治療を含めて、すべて無料である。 ただ、杉本健郎は、小児脳神経科医であり、息子が6歳で交通事故で亡くなって脳死と診断されたときに、心停止下で腎臓を提供した経験がある。専門的知識からいっても、体験からいっても、脳死・移植について、いわば「酸いも甘いもかみ分けた」うえでの、選択である。 同じ選択を、20歳そこそこで、身近な人に誰も移植(待機)患者も脳死と診断された患者もいない、医学や看護について学んでいるわけでもない、という人が、家族に選択を委ねる、というのとは、また違うだろう。 また、こどもが、親に選択を委ねる、ということを自ら臓器提供意思表示カードに記入する、というようなことは、無意味といってよい。 臓器提供の選択を家族に委ねることを認めるとしても、それができるのは、少なくとも成人でなければならないだろう。 そのうえで、さらに、「てるてる案」で脳死・臓器移植の際の条件の一つとしている、チェックカードの記入を、この場合に応用してもよいと思う。 チェックカードは、脳死と身体死の違いについて、本人が理解していることを確認するためのもので、健康保険証と同じぐらいの大きさのカード(二つ折か三つ折)で、臓器提供意思表示カードとともに携帯し、チェックカードのすべての項目に自筆のチェックがついていないと、臓器を提供することはできない、としている。 家族に選択を委ねる場合も、これと同じ条件を付けるならば、本人が何もわからないから家族に委ねるのではなく、わかっているから委ねるのだ、という「おとなとしての選択」に、近付けることができると思う。 てるてる案(「脳死否定論に基づく臓器移植法改正案について」現代文明学研究:第3号(2000):139-179) 森岡・杉本案「子どもの意思表示を前提とする臓器移植法改正案の提言」(森岡正博・杉本健郎共同提案、2001年2月14日) |
[ 110] Healing Space_mammy 委ねる
[引用サイト] http://spacemammy.blog66.fc2.com/blog-entry-31.html
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カウンセリングもした 人様に偉そうなことを言った 旨くいっているはずだった 自分では、納得しながら生きて来たと思っていた ”納得”・・・これは曲者 ”納得”していたのではなく、させて来たらしい ・・・ということに、今頃気づくなんて この数年、涙も出なかった 母が死んでも、泣かなかった 悲しくはなかった 母がつらい毎日を手放すことが出来たことに ただ、ご苦労様でしたと・・・言った きっと、安心して逝ってくれたと思う 然し、私は気づいていなかったのだ 深い深い奥のほうで、何かがふつふつと燃え滾っているのを そして、諦めのような感覚は多分、長年続いていたのだろう それが毎日の生活の中で、”普通”になってしまっていた 子供のころから、そして、結婚してからも・・・ずっと 何か(納得という言葉?)に、依存しながら 自分を隠し、表面上潔さを演じてきたのだろうか? 依存・・・これも、他人には言えても、自分では そうでないと思いたい・・・のだろうか 誰かを標的にする、誰かのせいにすれば 私の責任は一応回避されると、そんな計算があったのかもしれない 自分で自分をがんじがらめにして 気づかないまま、こんな年になってしまった でも、なぜ今頃・・・・ 私の修行は、そんな設定になっていたのだろうな 通らなくてはならない、私の道程 最初は辛かったんだろうが、そのうちに生き方の癖に なってしまっていた 癖なので、自分では最良の選択だったはずなのに 周りは全く見ていない・・・という状態 何のことはない、自分が一番ヒーラーを必要としていたのに 昨夜、久しぶりに涙が止まらなかった 辛かったのかな?・・・今まで でも、今日まで何とか生きてこられたのは ”守られている”から 人より遅い いつも30年早く生まれてしまったと言う感覚があるのだが それも、そうかもしれないと思うくらいに気づくのが遅い? もしくは、気づかない”ふり”? をしていたのか 祈るしかないと思った 「気づき」「受け入れ」「委ね」「手放す」 今、委ねようと思っている 自分の感覚を信じないわけではないが 妄想やら、空想やら(これも私の癖かも)頭の中を 廻っているうちに本質が何だか判らなくなる ちょっと、ブレイク・・・なんて、呑気な事を言ってる場合じゃないのに 祈る(委ねる)しかない気がしている 「委ねる」これは私の選択ではなく、受け入れるという意味での 委ねるである ★臼井レイキマスター スピリットレイキ フュージョンレイキ シルバーバイオレットフレーム アバンダンティア★アバンダンティア・アチューメント 5000円★遠隔ヒーリング(3日) 6000円 |
[ 111] 思春期家庭教育講座・その2 信じて任せ委ねるサポート - love&peace♪マチオの脱力生活日記! - 楽天ブログ(Blog)
[引用サイト] http://plaza.rakuten.co.jp/macchio/diary/200609280001/
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思春期家庭教育講座では、元登校拒否児童としての体験を基にした「不登校児童のまるちびこちゃん」という手作りの紙芝居を披露した。スケッチブックに描いた18画面の紙芝居。“鉄拳”のネタのアレのようなものだと思ってもらえばいい。出来は良く、さくらももこが見たらクレームがつきそうなできばえ。自分でも満足している。ともすれば深刻になりがちな話題を、少しでもユーモラスに語れれば、と思って用意した。予想以上に好評で、よかった。 先日の長岡市での講演とパネルディスカッションで知りあった西野博之氏の著書「居場所のちから」を今読んでいる途中なのだが、この本を読んでいると、「ありのままの自分で受け入れられる」ということの大きな意味を感じさせられて興味深い。ありのままの自分で許され、受け入れられるということは、何よりも大きな安心感だと思う。「学校に行けてしまう子どもたち」が、どれだけこの感覚を養う機会に恵まれているだろうか?ということを考えると、不登校でフリースペースに通っている子どもたちがいかに恵まれているか?ということを感じさせられる。 ということについて、9月28日の魚沼市での思春期家庭教育講座と10月1日の“若ぇ衆らサポートネットにいがた”の“その「支援」ちょっと待った!”パネルディスカッションとフリートークのイベントを終えて思うこと。神奈川県川崎市でフリースペース“たまりば”の運営を続けてきた西野博之氏の著書「居場所のちから ―生きてるだけですごいんだ―」の内容に触れながら書いてみたいと思う。 支援やサポートということを考える時、忘れられがちな「信じて任せ委ねる」という姿勢に目を向けることができた。メンタルに限らず、この姿勢はどのような支援・サポートであっても失うべきではないと信じる。 人間は本来、自分自身の力で自分の道を見つけ出し、それに向かって歩いていく力を備えているとオレは信じている。だから、“本人の進むべき道”みたいなことを指し示す必要は無い。というか、それこそ余計なお世話、お節介というものだろう。NEETが働かないことだって、あれこれと言うべきではない。ひきこもり者が社会参加しないことも、不登校児童が学校に行かないことも同様だ。ひきこもりがひきこもることによって、NEETが働かないことによって、不登校児童が学校に行かないことによって、生じる結果はすべて、良いものも悪いものもすべて本人がその時点ですでに受け取っているのだ。人は皆、その人に相応しいものを受け取っている。その中には自責の念や後悔、悩みや迷い、苦しみのた打ち回る経験なども含まれるかもしれない。しかしそれらでさえ、というよりもむしろ得がたい貴重な学びの機会なのだ。チャンスなのである。 「では、当事者に対する支援として何ができるか?」という問いに対しては、「本人の本来のちからを発揮できる時と場を提供すること」と答えよう。これが、西野博之氏がその著書「居場所のちから ―生きてるだけですごいんだ―」の中で言及している「居場所」なのだと考える。ここで言う「居場所」とは何かと言えば、当事者にとっては「ありのままの自分で安心できる場所」ということになるだろう。では、そういう場を提供する側にとってはどうか?それは「信じて任せ委ねる場」ではないだろうか?西野氏の著書を読んでいると、このことを強く感じる。フリースペース“たまり場”に集う子どもたちは、ありのままの自分でいることを許され(本来許される・されないということではないのだろうが、許されない機会や時や場が多すぎると感じる)自らの思いのままに振舞うことを経験することによって、自らが必要とするものを自分の力で手にしていく。そこには他者の価値観が入り込む余地は無い。彼ら彼女らが心から、自分の思うままに行動しているからだ。彼らは、そういう経験を通じて自らの状態を客観的に捉え、正当にかつ肯定的に評価し、それまで必要としていたであろう自己肯定感を手にしてゆく。失敗も成功も、よろこびも悲しみも悔しさもすべて自分自身の選択のゆえだという自覚を持ちながら。学校という場で“他人からの評価”にあえいでいた若い魂は、“思うがまま”の時と場を与えられ“他人の評価”から自由になることで、余計な手を加えずとも子ども自らの望ましい在り方に変わってゆくのだ。これは、彼らが人間として本来備えているたくましくも頼もしい力ゆえのことに違いない。 「信じて委ね任せる」という点においても、当事者主体であることが大前提であることは言うまでもない。「いつか不登校児童が学校に通えるようになること」「いつかNEETが就職なり就労すること」「いつかひきこもりが社会参加すること」総じて言えば「いつか皆と同じ、“まとも”な暮らしができるようになること」を信じることではないのだ。それはすでにして、そう願う他の人の価値観なのである。心配や思いやり、不安や憤り…どのような気持ちからのものであっても、それら他の人間の価値観の押し付けは、本人の生活が本人自身のものであるためには邪魔になりこそすれ助けになるものではない。例え家族であっても、だ。 意識的・無意識的を問わず、すべての人は今現在の自分の在りようをすでに選択しているのだ。ひきこもり・NEET・不登校…非ひきこもり・非NEET・非不登校だって皆そうだ。それらの意識的・無意識的な選択が、「“本人が選び取ったがゆえに”本人にとって必要なのであり望ましい選択なのだ」ということを信じること。それを信じることができるならば、本人のことは本人に「委ね任せる」ことが可能になるのだ。そしてそのことこそ、当事者にとって欠かすことのできない必要な支援になるのだと信じる。 自分のことは自分で決めてOK…そんな風にゆるくゆるく信じられ委ねられ任せられ、ありのままの自分でそこそこ安心して過ごしながら、自分のことは自分で決める。自分にできないことはすべて人にやってもらった。自分を養う糧を得ることも、お金を稼ぐことさえも。自分ですることには、全責任を負う(しかないしな)。そして、自らの正直な気持ちに従ってやりたいことだけをやる。成功も失敗も、よろこびも後悔も、結果はどんなものでも引き受ける。自分なりに楽しみながら、すべてが自分のため、自己満足のためだった。 これがオレが歩んできた道なのだ。自分のことは自分で決める。自分の思いに正直に、やりたいことだけをやってきた、ひきこもり後の無就労の約2年間。言い尽くせないほど多くの実績を積み、成功と失敗を繰り返し、うれしい気持ちせつない気持ち怒りや不安やその他多くの偽りの無い感情を抱くことを繰り返して、“他の誰でもない自分”を確かに手にすることができた。他の多くの人々の助けがあってのことなのは言うまでもないけども、心に抱く気持ちは常に、偽り無く自分自身のものだった。たくさんの人たちが今のオレ自身やオレがやっていること・やってきたことを誉めてくれて、それはうれしいんだけど、実際は「他人の目なんかどうでもいい。いち番たいせつなのは自己満足できるかどうかだ」と開き直れれば、他の誰だってオレくらいのことはできると思うんだ。今オレはそれくらい自分を信じているし、自分が好き。これって何より得難い尊い感覚だと思う。 心を養い育てるためには、余計な手を加えない方がいい。ありのままに任せる方がいいんだ。他ならぬオレ自身が、その好例。うん、自分、素晴らしいっ!(笑 ・ページの設定によっては、プルダウンで「顔選択」を行っても、アイコンが表示されません。ご了承ください。 まっ、人がいかに作為を凝らして他者を「改良」しようとした所で、父なる神自らの手による十字架を取り去る事は叶いませんからな。例え他者の眼に愚かと映ろうが、我等は自らに課せられた十字架を背負って、喜びに踊りつつ(←ここ最重要ね☆)歩み続けていこうではございませぬか。(2006/10/06 11:49:29 PM) 踊りつつ…ね。んじゃあ次回のこわれ者のイベントに行くときに、躍りながら出迎えてくれたまえ。こちらも躍りながらそれに応えようではないか。期待しておるぞっ! …ところで、タイトルは何のパロディ?ハガレンか?んw よく思い出せないのであるが。(2006/10/20 10:56:09 PM) Category・カテゴリ未分類(205)・引きこもり・AC・鬱・トホホなメンタル話(216)・多文化共生・国際交流(136)・お気楽ボランティア(63)・こわれ者の祭典(40)・失恋(84)・魚沼一座(29)・UNDISCOVERED(2)・きょうのひとこと、ふたことみこと(8) |